「2025年7月の大災難」予言漫画の正体 ―『私が見た未来 完全版』100万部ベストセラーを深堀りレビュー

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【徹底検証】22年の沈黙を破り、たつき諒が明かす新たな警告とは
1ヶ月後に迫る2025年7月。今、この時期にこの本を手に取ることの偶然と必然を考えずにはいられない。東日本大震災を予言したとして一躍注目を集めた「幻の漫画」が、22年の沈黙を破り、2021年に完全版として蘇った。私が初めてこの本の存在を知ったのは、2025年4月のことだった。そのときに、オークションで10万円超の値がついたこともあると知った。「大災害は2011年3月」と表紙に記した予言者は本当に未来を見たのか。そして今、新たに警告する「2025年7月の大災難」とは――。
いまこの時期に、たつき諒の予言と向き合うことには、どこか運命的なものを感じる。予言の真偽を超えて、この作品が私たちに問いかけるものは何か。単なる終末論ではなく、そこに込められた希望のメッセージを読み解いていきたい。闇を照らす光があるように、たつき諒の警告の先にも、確かな光が見えるのだから。
【東日本大震災予言から100万部突破】漫画『私が見た未来』誕生から完全版への道のり
1999年、ノストラダムスの大予言が外れようとしていた7月。世紀末の不安が和らぎ始めたその時期に、一冊の漫画が静かに世に出た。『私が見た未来』――たつき諒という漫画家の作品だ。表紙には「大災害は2011年3月」という衝撃的な一文。当時を知る人の話では、特にセンセーショナルな扱いもなく、一冊の漫画として書店の棚に並んでいたという。
作者はこの作品を最後に漫画家を引退。静かに時が流れた。そして12年後、2011年3月11日の東日本大震災が発生すると、状況は一変する。既に絶版となっていた本書は「予言の書」として熱狂的に求められ、中古市場では10万円を超える値がつくほどの希少価値を持つようになった。
私は図書館や古書店を巡り、その正体を確かめようとしたが、本物に出会うことはなかった。ネット上に流れる断片的な情報。地上波のゴールデン番組での特集。作者になりすました人物のインタビュー記事。真実と虚構が混ざり合い、日本中を「ざわつかせた」あの現象を覚えている人も多いだろう。
そして、22年の沈黙を破って、たつき諒本人による「完全版」が2021年に飛鳥新社から刊行された。その意義は大きい。
作品の根幹となっているのは、作者自身が長年書き続けてきた「夢日記」だ。10代の頃から見続けてきた未来の断片を記録したそれらが、今回初めて文章として公開されることになった。そこに描かれているのは、2011年3月の震災だけではなかったのだ。新たな警告――「本当の大災難は2025年7月にやってくる」という言葉に、改めて見てみると、私は身震いした。
【予知夢の衝撃内容】東日本大震災の3倍の津波?たつき諒が見た2025年7月の大災難

『私が見た未来 完全版』の中核をなすのは、たつき諒が夢の中で目撃したという未来のビジョンだ。どこか詩的な言葉で綴られた予知夢の記録は、読む者の心を強く揺さぶる。
特に注目すべきは、あの東日本大震災を予言したとされる夢と、今回新たに警告する2025年7月の予知夢との関係性だ。たつき諒は驚くべき告白をする。2011年の震災と自身の夢には、季節感や規模感において微妙な「ずれ」があったというのだ。
「東日本大震災は冬でしたが、夢の中の私は半袖姿の夏服です」
「夢で見た津波の高さは、東日本大震災、それよりも、もっと巨大でした」
この証言が示唆するのは、あの有名な予言は実は別の災害を指していた可能性だ。外れた予言ではなく、まだ来ていない未来を見ていたのではないか――その視点が、本書の読解において重要な鍵となる。
最も衝撃的なのは、2021年7月5日午前4時18分に見たという最新の夢日記の内容だ。海底が破裂(噴火)した辺りの俯瞰図が描かれ、波の帯が日本や周辺諸国に迫る状態が描かれている。また、夢日記枠外の解説には、「南海トラフ地震の想定をはるかに超える壊滅的な大津波が日本の太平洋を襲う」「日本列島の太平洋側3分の1から4分の1が飲み込まれている」と記されている。
「突然、日本とフィリピンの中間あたりの海底が、ボコンと破裂(噴火)したのです。その結果、海面では大きな波が四方八方に広がって、太平洋周辺の国に大津波が押し寄せました。その津波の高さは東日本大震災の3倍はあろうかというほどの巨大な波です。その波の衝撃で陸が押されて盛り上がって、香港から台湾、そしてフィリピンまでが地続きになるような感じに見えたのです。」
さらに、神秘的な要素も随所に現れる。「震源地に向かって、なぜか2匹の龍が向かっていく映像」や、Google Earthで見ると現実の海底地形に「夢で見た2匹の龍のようなシルエット」が見えるという記述は、現代的な科学観と神話的世界観が交錯する独特の感覚をもたらす。
しかし、この本の最も重要な点は、たつき諒の予言が単なる破滅の警告で終わっていないことだ。破壊の後に訪れる世界への眼差しがある。彼女は大災害の後に「多くの命が助かり、速やかに復興に向かって人々が生き生きと暮らしている」明るい未来像も同時に見たと語る。
これこそが『私が見た未来 完全版』が単なる終末論と一線を画す、最も価値ある部分ではないだろうか。警告と共に希望を示す姿勢は、単なる予言者を超えた、深い人間愛を感じさせる。
読者はこの予言を鵜呑みにするのではなく、一つの可能性として、そして自分自身の生き方を見つめ直す契機として受け止めるべきだろう。本書を読む真の価値は、具体的な災害予測の詳細よりも、むしろ未来に対する私たちの姿勢を問いかける点にある。それでも、2025年7月5日という日付が刻々と近づく今、たつき諒の夢日記が描き出す鮮明なビジョンは、否応なく私たちの心に迫ってくる。
【夢日記の表現世界】予言を記録するたつき諒の独自の視覚言語
『私が見た未来 完全版』で初めて公開された「夢日記」からは、たつき諒独自の表現世界が浮かび上がる。文字と図像を融合させた記録方法が最大の特徴だ。夢で見た光景を絵と文字で忠実に再現しながら、詳細な状況解説を加えることで、非現実的な絵にリアリティを持たせている。
夢日記には独り言のようなつぶやきも書かれている。「なぜか震源地に向かって2匹の龍が向かっていく映像も見ました」といった感想が随所に挿入され、夢を見た直後の率直な印象が生々しく保存されている。この即時性が体験の鮮度を保ち、読み手に直接的な体験として伝わってくる。
単なる予言の記録を超えて、未知の体験を可能な限り忠実に伝えようとした一人の表現者の痕跡として価値がある。夢という捉えどころのない体験を、これほど多角的に記録する試みは比類がなく、たつき諒の夢日記は予言書であると同時に、独自の表現様式を持つ貴重な記録でもある。
これは伝えきれているか全く自信がないので、ぜひ実際に『私が見た未来 完全版』を手に取って「夢日記」を見てほしい。
【予言の社会的意義】なぜ今「2025年7月」を警告するのか?大災難の後に訪れる「心の時代」とは
本書の核心的価値は、予言の的中率にあるのではない。むしろ、災害と向き合う私たちの姿勢、そして未来への希望を問いかけるメッセージ性にこそある。
たつき諒は「大切なのは準備すること」と繰り返し強調する。
「何も知らない、わからない状態でいるとどうしても準備を怠ったり、逃げ遅れたりする人が出てきてしまいます。でも、日付まではっきり知らせることで、みんなが同じゴールに向かっていくことができるのではないでしょうか?」
この言葉には、3.11の経験を経た日本人の多くが共感するだろう。もし事前に知ることができていたら――その思いは、日本人の多くが抱く後悔ではないだろうか。
興味深いのは、コロナ禍後の社会変化を、「危険の事前回避」として肯定的に捉える視点だ。
「今回のコロナ禍ではリモート勤務で、地方でも仕事ができるようになって、居住地の選択肢が増えました。また、ビルの地下にある酒場にはあまり人が集まらなくなっているのは、危険の事前回避ということでしょう。ここに予言が加わることで、新しい生活、災害から身を守る生活がやりやすくなっていると思うんです。」
たつき諒は自身の予言書が「そういう役割を持って生まれてきたもの」という使命感を示している。この確信に満ちた姿勢には、単なる自己顕示欲を超えた、社会への深い洞察が感じられる。
2025年7月という具体的な時期を指定するという行為には、覚悟と責任が伴う。誰しも予言が外れることを願いながらも、もし現実となれば検証される――その緊張感の中で、たつき諒は自らの予言を世に問うている。それは予言者として勇気ある選択といえる。
同時に、彼女の警告は決して絶望に導くものではない。「みんなが同じゴールに向かっていく」という表現には、日本古来の「結」の精神を引き合いに出しながら、「心の時代の到来」を語るその言葉には、物質文明を超えた価値観の転換への期待が込められている。
「日本には「結」、という言葉があります。「結」は労働力を提供し、助け合う仲間たち。農作業などのとき、隣近所みんなで共同して分ける分け合うのは当たり前のことでした。」
現代社会において、このような警告の意義とは何か。それは単なる恐怖の喚起ではなく、私たちの生き方や価値観を見つめ直す契機となりうるものだ。たつき諒の予言を手がかりに、私たちは「心の時代」について考えざるを得ない。
【2025年7月以降の世界】予言が描く「光り輝く未来」とAI時代における「心の時代」の可能性
「本当の奇跡とは心が変わることです」
この言葉には、『私が見た未来 完全版』の本質が凝縮されている。予言の書でありながら、その先にある希望を見据える姿勢は、終末論とは一線を画す独自の世界観だ。
2025年7月――この本を読む私たちにとって、それは今や1ヶ月後に迫った未来だ。科学的に実証できない予言に、どう向き合うべきか。盲信でも全否定でもなく、一つの可能性として受け止め、備えること。それこそが、たつき諒が私たちに問いかけていることではないだろうか。
本書を読み終えた後、私は強く「心の時代」という言葉に惹かれた。今の時代に最も不足しているのは、まさにこの「心」ではないだろうか。日本の長引く不況の中で疲弊する人々。2022年2月から続くロシアとウクライナの戦争。2025年4月に始まったトランプ大統領による相互関税政策がもたらした国際的分断。そして今月になって勃発したパキスタンとインドの紛争。物質的・技術的に豊かになった世界が、なぜこれほどまでに分断と対立に満ちているのか。
――以下は純粋に私個人の感想として書き添えたい――
2024年からの急速なAI普及という文脈で『私が見た未来 完全版』を読むと、不思議な示唆が見えてくる。もしかすると、たつき諒の予言する「心の時代」は、皮肉にもデジタル技術の究極形であるAIによってもたらされるのかもしれない。これまでデジタル社会は人々を分断し、「心」を遠ざけてきたように見える。しかし、ブロードリスニングやプルラリティ(PLURALITY)、デジタル民主主義といった概念が注目される今、AIという技術が「心の時代」を取り戻すためのターニングポイントになり得るのではないか。
ここまでは私の個人的な解釈だが、考えてみれば、たつき諒の描く大災難の後に訪れる「光り輝いている未来」とは、単に物理的な復興を意味するのではなく、人々の意識や価値観の根本的な転換を示しているのかもしれない。
――
たつき諒は著書の中でこう述べている。 「もしかしたらこの単行本が発売されたことで、表紙に書いた後、5年経ったら迎えに来るというメッセージの意味になるかもしれません。心の時代が来れば、私が夢で未来を見て、警鐘を鳴らす必要もなくなります。私は今、これで「やっと終わる」という感じがしています。」
この言葉には、予言者としての使命を全うしたという安堵が感じられる。
災害という物理的危機を契機に、私たちはようやく「心」を取り戻す――そう考えると、たつき諒の予言は単なる災害予知を超えた、現代文明への深い洞察を含んでいるように思える。
災害大国日本に生きる私たちにとって、未来の災害に備えることは日常的な課題だ。『私が見た未来 完全版』はその意識を新たにする機会を提供してくれる。
もし7月が何事もなく過ぎるなら、それはそれで幸いだ。しかし、たつき諒が描く「心の時代」への希求は、予言の成否を超えた普遍的メッセージとして私たちの心に残るだろう。「大切なのは自分自身が生き延びること」そして「あらゆることに物事がプラスの方向に進んでいく世界」を信じること。
世間はその警告に半信半疑かもしれない。しかし私は思う。未来を照らす光は、時に小さな警告の炎から生まれるのではないか。この一冊には、恐怖だけでなく、確かな希望が宿っている。
【最後に】大災難に備える「自助・共助・公助」の心構え
災害という物理的危機を契機に、私たちが「心」を取り戻すという視点は、たつき諒の予言が単なる災害予知を超えた、現代社会への深い洞察を含んでいることを示している。
災害大国日本に生きる私たちにとって、未来の災害に備えることは日常的な課題だ。『私が見た未来 完全版』はその意識を新たにする機会を提供してくれる。
災害対策の基本は「自助・共助・公助」と言われる。まず「自助」として、自分の身は自分で守ること。非常食や飲料水の備蓄、避難経路の確認、家具の固定など、今すぐできる対策は無数にある。たつき諒が「大切なのは自分自身が生き延びること」と述べるのは、この自助の精神そのものだ。
次に重要なのが「共助」だ。たつき諒が日本古来の「結」の精神を引用するのは示唆的である。「結」は労働力を提供し、助け合う仲間たちの絆を意味する。大規模災害の際、公的支援が行き届くまでの空白期間を支えるのは、この地域コミュニティの力だ。「みんなが同じゴールに向かっていく」という表現には、共助の重要性への深い理解が示されている。
そして最後に「公助」。行政による支援システムの整備も不可欠だが、その限界を知り、過度に依存しない姿勢も大切だ。
予言が示す2025年7月が近づく今、私たちにできることは何か。それは未来への不安に怯えるのではなく、今日から具体的な備えを始めることだ。非常食を買い足す。家族との連絡方法を確認する。地域の避難所を把握する。そうした一つ一つの小さな行動が、未来の命を救う。
たつき諒が描く「心の時代」とは、物質的繁栄よりも人と人との絆を重視する世界観だ。それは災害という極限状態だからこそ見えてくる本質かもしれない。もし7月が何事もなく過ぎるなら、それはそれで幸いだ。しかし、「心の時代」への希求は、予言の成否を超えた普遍的メッセージとして私たちの心に残るだろう。
世間はその警告に半信半疑かもしれない。しかし私は思う。未来を照らす光は、時に小さな警告の炎から生まれるのではないか。この本を閉じた後、読者それぞれが自分にできる「準備」を考え、行動に移すこと。それこそが、たつき諒の予言に対する最も誠実な応答ではないだろうか。